昭和49年1月6日 朝のご理解
御神誡一、真の道におりながら真の道をふまぬこと
あまりにも、漠然としておりますから、また、あまりにも広いから、信心致しておりましても、ここのところを何事にも信心になれよと仰る、何事にも真心になれよと仰っておられる。この事には真心になっておるけれども、この事には掛けておるというような事があってはならん。何事にも真心にならなければならん。
昨日ある方がお参りをしてきて、毎日お参りをされます。家族が七名か八名でしょうか。子供達のこと孫達の事、それぞれにお届けをなさいます。ところがそこにはお母さんがおられるのですけれども、お母さんの事をお願いされるのです。言えばすぐ分かられる方ですから、あなた子供の事やら孫の事ばっかり願ってから、お母さんの事はねがわなじゃこてと、いやあ、はあ、そうですなとすぐ分かるのですけれども、やはり言われたのではいけん。もうずいぶん長くなっておるのでございますけれども、その方が、この、元日からお母さんのお届けをなさるようなってきた。で昨日たまたまゆっくりしておるときでしたからそれも、今年は何か本気で一ついつも神様に心を向けられる事の為に修行を色々と工夫しておりますという事でした。やはり修行というものは工夫されなければだめです。 今日から寒修行が始まります。ただ、寒修行に五時の御祈念にこうしてあわせて頂くといっただけでは当り前の事ですからそれにやはり、ちょっと工夫が加えられなければ特別の修行と言う事になりませんですね。やっぱり工夫をしなければなりません。その方そんな事を思い立って今年こそ、少しはましな修行をさせてもらいたいという願いを以っておられる。私昨日お届けをさせて頂きながら、この正月からあなたのお届けをみせて頂いて、お母さんのお届けがあるので、私は本当にうれしい思う、何かお礼を言うたいごたるとういてからえらい自分も感動しておられました。どうしてこんな事が気が付かなかっただろうかというわけなんです。いうなら、子供の事を願うより親の事を願えと仰る、ね、ですから、ところがやはり子供や孫やというのは毎日、かかさずきちっとお願いをなさるのです。親の事の私は真の道というのはそういうような事ではないかと思うのです。
ね。最近、最近ていうかこの正月から、金光様の年頭のご挨拶のあの、御教えの中から特に「礼を言う心をこもれぬ言葉なり、日本の言葉お世話になります」「礼を言う心をこもれぬ言葉なり、日本の言葉お世話になります」ここのところのお世話になりますと言うこと、ところをいよいよ、本気で行の上に現していこうと言う風に申しております。今までもずいぶんお世話になりますという言葉を使ってきたけれども、金光様が仰るお世話になりますというのはいわゆる、礼と言う心のこもるものでなからなければならないとい事。ね。
昨日も私お食事の時に話した事でしたけれども、それは、他人さんのお家で一食でもお世話になるとやはり、頂きますといい、また済んだらお世話になりますと言うて帰る。自分の家ではもう当り前のように思うておる。俺が働いて俺が買ったもので俺が生活をしておるんだというところには信心のしの字もないと言う事はもう真の道をそこから、はずれておるという感じです。最近その事を私思うて、せめてです、他人様のお家ではお世話になったくらいな気持ちではね、お世話になりますが言えなければならないなあ、なら頂きますというて、まあ遠慮なしに頂きますという、頂きますという事と同時に終わったらお世話になりますと、これがお食事だけの事ではない全ての事にそれが、出来れる私にならせて頂こう、今年はこの信心でいこうと言う風に、私今それを行じさせて頂いておりますとです、本気でそのことを言うことになってまいりましたらですね、そのお世話になりますという中に段々深さが出来てきたと。また広さが出来てきたという事です。例えばお食事をさせて頂くでもです、そのご飯を炊いてくれたいうならば勝手の方達、またはその米をお供えなさった方達、またその米を作ってくださったお百姓さん達、またはそれが場合には、(?)そこんところにもうその、お世話になりますがずっーと、一椀のご飯の中にも深い広いになってくる。それが、本当にここに一椀のご飯を頂くという事は大変なお世話が重なっておるなあと思う時にです、いよいよ深い意味においてのお世話になりますが言えれるのです。それが有り難いのです。
それが私は本当の意味での、ね、いわゆる実意な頂き方ということになるのではないかとこう思うのです。勿論私はお道でいう実意とは、真心、真に通じると思うのです。形だけの事ではない、ただ言葉だけのものではない。なるほど礼を言う心がいよいよ深く広くこもってくる。
昨日壮年会にそのことを話させて頂いたのですけれども、私が長い間、(?)におりましたけれども、シナ言葉の中にはなるほど、お世話になりますと言う言葉はないようです。有り難うと言う言葉はあります。シェイシェイと。または済みませんと言う言葉はあります。(?)とこう申します。けれどもお世話になりますということは言わない。どこの国にもやっぱないのかもしれません。例えば、おはようございます一つですらが、あなたが、ご飯はすみましたかという、(?)、あなたはご飯が済みましたか、すみました、それは結構でした、もう今日はご飯が頂けれたと言う事は大変有り難い事だという意味をこめて挨拶をする。ね。確かに、日本の言葉お世話になりますと。私は昨日皆さんに申しました。お世話になりますということはなるほど、礼を言う心がこもっていなければなりませんけれども、これは有り難うございますというのと、違うと思うがどういう風に違うと思うかというて、話した事でしたがね。
商売をさせてもらうには商売の上、真の道がありましょう。お百姓をさせて頂かれる方にはお百姓をされる中にいわば真の道がございましょう。私はその、道を頂かせてもらうと言うことがです、真の道におるものが真の道を踏んでいくということになるのです。神様だけには一途だけれども、家庭生活はなっておらんということになればもう真の道を踏み違えておるわけです。ね。とりわけです、私はこの親子の道というものがね、本当に深い広いものにならなければならない。親が子の事を願い。これは一つの何というでしょうが。場合には(?)であります。愛情と言うようなね。けれども、子が親を思う思いこそ私は本当の愛情じゃなかろうかと思うですね。金光様の御信心をさせて頂いたらまず第一にです親子の道がはっきりしてきて、その親子の上にあるところの真の道を踏ませて頂かなければお道の信心は私は成り立たないとすら私は思います。
親に受けたそれこそ恩は海よりも深く広く、山よりも高いという風に昔の人は表現しております。けれども本当にお世話になりますという言葉の仲から親に対する礼というものが段々出来てくるとするならばこんなに私は深く広く広げて行ける心はないと思うです。そこから、深い、例えば私が最近お食事をさせて頂く時に感じるです、お世話になりますと言う事はこんなにも沢山の人にお世話になりますというものが一言のお世話になりますに込められてきます。段々。これが礼を言う心が込められてくるのだなあという風に思うのです。ね。
あんまり漠然とした御教えのようですけれども、たとえばなら親子の事、または金光様の今年のお言葉にあるところのお世話になりますという言葉の中から真の道ををです今日は聞いて頂きました。そこからです、本当に深い広い有り難さ、その有り難さが全ての事に実意にならざるをえない生活がだんだん身についてくるのではないでしょうかね。